伝道掲示板

法縁寺は、昭和26年から、山門の左横黒板に、法語の掲示を行っています。
言葉から頂く力を大切にして、私だけでは気付かない大きな世界に、共に出会わせて頂きたいと考えます。
門前をお通りになった際に、目を向けて下されば有り難いと存じます。

令和2年11月11日掲示

 秦師が、仏教の教えの本質である三法印、「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静」を、分かり易く解き明かされました。人間は、何かをあてにしながら、そして何かしらの望み持ってしか生きざるをえない存在なのかもしれません。しかし仏さまは、望みのままにしよう、あてにしよう、という思いそのものが、生きていることの真実、「諸行無常」、「諸法無我」に反することであると教えられるのです。私の命は、私の思いをはるかに超えた無限の恵みを頂いて私に賜っているものであり、その命の本当の尊さは、むしろ私の思いの挫折を通して気づかされることがあるのかもしれません。そのとき、思い通りにならなくても、そのままで安心して生きていける道が開かれる、秦師は、これが「涅槃寂静」につながる道であると示されているのでしょう。(文責住職)


令和2年10月28日掲示


 我々は何か一つのことを得ても、もう少し、もうちょっと欲しくなる。お釈迦様は、それは、手にした食べ物がその瞬間に燃えてしまって、どれだけ食べ物を得ても満腹が得られない状態であると譬えられ、この欲望に際限のない状態を餓鬼と名付けられました。貧欲の煩悩を持った人間の姿でありますが、このままでは人生の本当の喜びを感じることは難しいのでしょう。親鸞聖人が開かれた感恩の世界は、「不平不満ばかりに」なっている私を悲しむことを通して、命の本当の姿を求めさせられる、そこに限りない因縁の力、恵みの力を頂いて生きる私の命に気づかされるところにあります。「生きていること自体の不思議さ有り難さ」を感じたとき、今の私を喜ぶと同時に、足るを知る本当の満足の世界に出逢わせて頂くのではないでしょうか。(文責住職)


令和2年10月14日掲示


 感染症のことから、本年の報恩講は、吉峯教範師の御法話を自粛せざるを得ないこととなりましたので、師にお願いしてお送り頂いた法縁寺御門徒へのメッセージの中から、この言葉を掲示させて頂きました。私は、親鸞聖人の御一生から頂ける最も大事なことは、越後遠流の命がけのご苦労の中に、念仏の教えの真実なることを、人々ともに生活の中で実証されたことであると受け取っています。我々は、現在の境遇を引き受けられず、ああなったら、こうなったらと心を砕いて過ごしていることがあるかもしれません。できれば苦労は避けたいのですが、後になって振り返れば、あの苦労のお陰で今の自分があると思えることもあるのではないでしょうか。私の思いにとらわれて愚痴が出るときは、念仏を申しながら如来に抱かれる身であることに立ち帰る、そこに「この身このままを大切に喜ぶ」道が開かれるのかもしれません。本年の報恩講は、感染症の様々な苦労の中に、少しでも今歩むことができる道を意識できる、そのような御縁になればと考えています。 (文責住職)


 

令和2年9月30日掲示


 蓮如上人七十八歳のとき、感染症の大流行により多くの人が亡くなり、動揺する御門徒に対して著された「疫癘の御文」の一節であります。蓮如上人は、疫癘による死をあってはならないこととして動揺する人々の姿を見て、仏教の教え「(死は)生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり」に立ち返ることの大切さを説かれたのです。我々は、ふだんは、死を意識の外に追いやって、なるべく考えないようにして生きていることはないでしょうか。そうすると、いつのまにか今日あれば明日もあることが当たり前となり、今日できる仕事も明日にしてしまうことになるのかもしれません。死から目をそらさないことは、一日一瞬を生きていることのかけがえのなさ、尊さを自覚す ることにつながる、更には、命の本当の姿、無量寿に心を向ける大事な機縁になるのではないでしょうか。(文責住職)


 

令和2年9月14日掲示


 住むところがあり、食べるものがあり、ひとときの娯楽もある、このような「日常」に、どれだけ感謝を感じているでしょうか。それは「当たり前」であるととらえ、感謝どころかつい不足が出てしまうのが現実ではないでしょうか。仏教の教えによりますと、世の中も人生も無常であります。私に頂いている限りない因縁が絶妙のバランスを保っていることのおかげで、私の今の一瞬がある。そもそも私が生まれてきたことが大変な「奇跡」であることは、科学からも教えられます。今日の一日をかけがえのないものととらえる、そこに人生の充実があるに違いありません。感染症の流行は、当り前にしてきた「日常」の意味を問い直す機会であるのかもしれません。(文責住職)


令和2年9月3日掲示


 我々は、自分の思い通りに物事が進むときは、とても嬉しく、自信に溢れます。確かに、努力をして自分の目標をかなえることは、人生を歩む上で大事なことであり、そのときに達成感や充実感を感じることは、次の努力を行う上で必要なことであるのでしょう。しかし、このときには自分のことが肯定されています。様々な不充分さを許されて生きているはずであるのに、その不充分さに心が向き、「私自身の在り方を問われること」はないのではないでしょうか。感染症の流行により、思い通りにいかないことばかりの毎日ですが、私自身の在り方を問い直し、感謝の気持ちや協力関係を新たにすることにより、私の本当の力を蓄えることができると考えたいものであります。(文責住職)


令和2年8月24日掲示


 毎月24日はお地蔵様の縁日であり、特にお盆に引き続く8月24日は、子どもを守って下さるというお地蔵様のいわれから、地域の子どもたちが集まって、昔から地蔵盆として丁寧な感謝のお勤めをしてきました。ところが本年は、感染症の流行から、今までと同じような地蔵盆を行うことが難しく、子どもたちの声が聞こえることが少ないという、とても残念なことになっているようです。仏さまは、このようなときも私たちを心配してくださることに変わりはありません。都合を優先せざるを得ない私たちの生き方をも必ず摂取し、感染症の流行によって起こるさまざまな出来事の中にも、私のあり方を振り返り、最後は必ず仏様の願いの道に引き戻して下さるという御縁を頂くのに違いありません。(文責住職)


令和2年8月16日掲示


 我々は、不安があるのは私の不充分さの故であり、私が充実すれば不安は解消して人生を歩める、ととらえてはいないでしょうか。確かに、物事が順調に進むと、余り不安を感じることはなく、自信があると感じられるかもしれません。しかしそれは人生の問題に目を向けていないだけかもしれず、ひとたび老病死等の問題にぶつかると、不安どころか絶望の底に沈むこともあるのではないでしょうか。親鸞聖人は御和讃に、「罪障功徳の体となる。障り多きに徳多し」と表されています。不安は、むしろ私を人生の大事な問題に目を向けさせる大切な御縁であるかもしれません。私の命ばかりにとらわれる私を、もっと大きな命に目を向けさせ、不安を抱えながらも、恵みに感謝し、共に協力して生きていく道に出させて頂ける御縁であるのかもしれません。(文責住職)


令和2年7月25日掲示


 この言葉は、我々の幸福、不幸のとらえ方の本質を、見事に言い当てたものであると感じられます。しかし同時に何か大事なことを呼び覚まされている気がするのではないでしょうか。「他と自分を比較」する心から離れられない私でありますが、この心のままに生きていると、私の状態によって、「幸福」と「不幸」は常に入れ替わり、結局不安と隣り合わせの人生になるのでしょう。命の尊さとは、他と比較することによって決まるものではなく、他と入れ替わることのできない個性を放つ、その存在そのものにあるのでしょう。この平野師の言葉を聞き、私は、心の奥底の、命の本当の尊さを求める願いが呼び覚まされるように感じるのです。(文責住職)


令和2年7月11日掲示


 本年大船渡高校からプロ野球に入られた佐々木朗希投手は、陸前高田市の小学校3年生のとき東日本大震災を被災し、父、祖母を亡くし、祖父は行方不明、しかも自宅は全壊するという大変な経験をされました。その中で野球を続けて、日本の高校生として史上最速の速球163キロを記録されました。学校で野球ができるという、普通の高校生として「当たり前」のことが、彼にとってはかけがえのないことであり、一日一瞬の真剣な取り組みが、この成長に繋がったのかもしれません。感染症の影響により、今まで「当たり前」のことができなくなっている日常があります。一日も早く元通りになることを願うばかりですが、「当たり前」にしていたことを、これからはもっと感謝し大切にするべきことを、佐々木投手に教えられるのではないでしょうか。 (文責住職)


令和2年6月26日掲示


 我々は現在の「生」のみを見て「死」を見ない、「生死」全体を忘れて生活していることがあるのではないでしょうか。この生き方は、表面的には安定しているようで、日々の「生」が当たり前のような感覚になったり、今日できることを先送りしてしまったりすることに繋がってしまうのかもしれません。忘れようとしても意識の中に入り込んでくるのが「死」であり、逃げようとすればするほど、底知れない恐怖を感じるのが「死」というものではないでしょうか。武内師の言われる「生死をみつめる」とは、私一人で悩むのではなく、教えを聞かせて頂き、私一人の死で終わることのない命の本当の姿に出会わして頂くこと。それが、「生活はかがやく」と武内師が 表現される生き方であるのでしょう。(文責住職)


 

令和2年6月18日掲示


 この言葉に接すると、私も父親であるために、身の引き締まる思いがします。
 私の父は二十年以上前に亡くなりましが、大変厳しい父でした。父の生前は、緊張から自由に話すこともできず、父の心をなかなか理解することができませんでした。しかしその「行い」は目の当たりにしていたため、同じことはできないながら、私の行動の基盤となり、大事な人生の財産となっていると感じます。いま遺影を前にしていると、父の思い、願いが痛いほど感じられ、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。同時に、その「志」を受け止めることの大切さが身に沁みて感じられます。6月21日の父の日は、父への感謝、そして、私の「行い」「志」を振り返る日にしたいと思います。(文責住職)


 

令和2年6月4日掲示


 なかなか無くならない悩みがあるとき、私も同じように悩んでいるよ、と一緒に悩んでくれる人が現れれば、本当に有り難い気持ちになります。安田師は、我々のこのようなとらえ方をもう一歩進めて、悩みを通して、人と人の関係を深めること、共に教えに向かうことの大事さを指摘しておられると思われます。親鸞聖人は、「障り多きに徳多し」と御和讃に表されました。悩みにぶつかったとき、私の生き方を問い直す、共に生かされている事実に目が開かれる、周囲の人と力が合わせられる、そこに悩みが有るままに生きていける道が見出されるのではないでしょうか。感染症による苦悩の日々がまだまだ続くようでありますが、「共に悩めること」を大切にし、周囲の人と協力して過ごしていきたいと思います。(文責住職)


令和2年5月20日掲示


 過日、大津淨宗寺様の御法事の御法話の際、住職の相愛大学客員教授直林不退師が引用された言葉を掲示させて頂きました。師の御法話によりますと、野村克也氏の少年時代は貧しく、充分な野球道具も買えなかった。氏の母は、そのことを詫びながら、人の悲しみのわかる人間になってな、と教えられた。そして人の悲しみ、人の心をわかろうとしたことが、成長されてからの、選手として、監督としての活躍の本になったとのことです。現代は、欲しいものがほとんど手に入る豊かな時代になり、かえって人と人のつながりが薄れていると言われています。貧しいことを御縁として、人を思いやり、共に生きることの大切さが感じられる。感染症の影響で本当に不自由な毎日ですが、こんなときこそ「人の悲しみのわかる」人間でありたいと思います。(文責住職)


令和2年5月5日掲示


 我々の人生は、順調であるばかりでなく失敗や挫折を経験します。いかに努力しても避けられないこともあるかもしれません。仏教においては、いかなることも、私を離れたところからやって来るのではなく、私を含めた一切の人や物の繋がりの中に生じるととらえます。その意味で、我々の失敗や挫折は、拠り所としている大地につまづいて倒れるのであると武内師は言われるのでしょう。そうであるならば、その失敗や挫折を乗りこえることも、周囲の人や物の結びつきの中にヒントがあるはずであり、そのことを、武内師は、「大地に支えられて起つ」と表現されているのでしょう。この度の感染症の克服も、人と人の支え合いが大きな力になるのではないでしょうか。(文責住職)


令和2年5月1日掲示


 我々が日々生きていけるのは、自然の恵み、人の恩恵のお陰であります。これらものは、あまりにも密接に働いて下さるが故に、私と一体となってしまって見えにくいことがあるようです。空気、胃や腸の消化器官、両親のご恩等々、私の命を育んで下さるかけがえのないものであるのに、大切にし、感謝できていない現実があるのではないでしょうか。最も大事にすべきものを大事にせず、目の前にある欲望の対象にばかり目を向け、それを得ることを無二の大事な行動としている私の姿があるように思われてなりません。やがて挫折するに違いないこの姿勢を、栖雲師は心配されているのです。地球温暖化が引き起こす様々な問題も、この挫折の一つであるのかもしれません。(文責住職)


令和2年4月16日掲示


 毎年春は、桜の花の見事さに心を奪われます。しかしその美しい状態は数日であり、花が落ちた後はもの悲しい気持ちになります。しかし、注意して見れば、地面に落ちたたくさんの花びらは大地の栄養となり、やがて多くの生き物の恵みのもととなるのでしょう。我々は、ひと時の美しさにとらわれて、命の大事な営みを見落とすことがあるのかもしれません。そのことを、武内師は、「散ると見たのは」私の勝手な思いであって、それは「錯覚」であると指摘しておられるのでしょう。我々は、生きていると、大事な人が亡くなることを経験します。それは悲しくつらい出来事ですが、故人の御恩を受け止められた時、何にも替えがたい我々の力になるのではないでしょうか。そのことを桜が教えてくれているのかもしれません。(文責住職)


令和2年4月8日掲示


 彦根城の桜が満開となりました。新型肺炎の流行のため観光客はまばらですが、そのような人間世界のこととは関係なく、例年通り見事な花を咲かせています。明日は散る定めであるのに、見る人があろうとなかろうと、花びらの一枚一枚を力の限り引き延ばして、美しさを表現しています。むしろ明日散る定めであるからこそ、頂いた命を燃焼し、その使命を果たしているのかもしれません。我々は、頂きがたい尊い命を今既に頂いています。無常の人生である以上、明日がある保証はありません。九条師は、花の姿に心を打たれ、今のこの瞬間を精いっぱい生きることを、「見ずや君」と呼び掛けておられるのでしょう。(文責住職)


令和2年4月8日掲示


 4月8日は、お釈迦様の誕生日です。お釈迦様のお誕生には次のような言い伝えがあります。
 お釈迦さまは、今から約2500年前、ネパールのルンビニーの花園でお生まれになった。お釈迦さまは、お生まれになるとすぐに七歩歩まれて、右手を天に左手を地に指して、天上天下唯我独尊と叫ばれた。そのとき、天の竜神が驚き敬い、甘い香りのする雨を降らしてお釈迦様の身体を清めて誕生を祝福した。 
 これにもとづき、毎年4月8日に、お釈迦様のお誕生像を、花で飾り付けた花御堂に安置し、そのお身体に甘茶をかけてお釈迦様の誕生をお祝いします。これを花まつりと言います。 天上天下唯我独尊のお言葉にある「我」とは、全ての人の「我」であります。この大宇宙(天上天下)において、この私がただ独りあったとしても尊い(唯我独尊)、という意味ととらえます。すなわち、花まつりは、お釈迦様誕生のお祝いであるだけでなく、全ての人がこの世に尊い存在として誕生させて頂いたお祝いでもあります。(文責住職)


 

令和2年4月2日掲示


 テレビで大活躍であった志村けんさんが新型肺炎で亡くなられました。新型肺炎の恐ろしさとともに、無常ということを改めて感じさせられました。志村さんの生み出される笑いは、暖かさと安心感のある笑いでした。私はこんなに格好悪いところがあるんだよ、と人を安心させて心を通い合わせる、そこに緊張が打ち解けて笑いが広がるのが志村さんの笑いではなかったでしょうか。人間関係がとかくぎくしゃくしがちな現代にあって、そこに満たされないものを感じた多くの人たちが、人と人の心の通い合いを感じ、志村さんの笑いに魅了されたのかもしれません。志村さんは、人の気持ちを思いやること、人と人が共に生きることの大事さを、笑いを通して発信されていたのに違いありません。合掌(文責住職)


令和2年3月24日掲示


 生きていると大変な苦労に出逢い、「闇」のような気持ちになることがあります。しかし思い通りにならないことを通して、思いを超えた命のあり方に気づかせて頂き、真に謙虚な姿勢で人やものとつながろうとすることができるかもしれない。そしてそれが問題の解決に近づくことになるかもしれない。この心の深まりを、高光師は「夜明け」と指摘されているのでしょう。人間の社会も、戦争、疫病、災害等々、様々な試練「闇」を経験し、そのたびに尊い犠牲を払いながらも、我々の不充分なところを改め、協力関係を強めながら、よりよい社会を築いてきたのかもしれません。新型肺炎の問題も、少しでも早く「夜明け」が訪れて欲しいと切に願うことであります。(文責住職)


 

令和2年3月10日掲示


 様々な周囲の力を頂いて私の歩みがあるはずであるのに、物事が思い通りに進むと、私の力にうぬぼれたり、周囲への感謝を忘れたりすることがあるようであります。榎本師は、このことを、「フワフワと足は大地を離れかけ」と表現されていると思われます。ところが、物事が思い通りに進まない事態に陥ると、私の力の不十分さに気づかされると同時に、あらゆる周囲の力を頂かなければそれを収拾できないことにも心が向けられるのではないでしょうか。むしろ逆境の時、本当の私の姿を見出すことができるのかもしれません。榎本師は、このことを、「しっかりと足は大地についている」と表現されているのでしょう。(文責住職)


 

令和2年2月25日掲示


 仏教では、一切の御縁によってあらしめられている存在が「私」であると教えられます。人生の苦悩は、このことに心を向けず、「私」にとらわれ、「私」を主張しようとするところから生じると教えられます。この意味では、「死にたくないと力む」ことは、「私」へのとらわれに他ならず、「苦しい」のは当然の道理であるのでしょう。御縁によりあらしめられる存在である限り、「死すべき身」であることが道理であります。それに気づけたとき、既に「私」が頂いている御縁を、恵みとして喜べる世界が広がることでありましょう。このことを、田代師は、「安心できる」「与えられた命、あるがまま完全燃焼」と、表現されているのでしょう。(文責住職)


 

令和2年2月9日掲示


 懸命に人生を歩んできたつもりでありますが、あの時ああすれば良かったのにと、後悔することが多くあります。できればもう一度小学校のころからやり直したいと思うこともあるかもしれません。しかし、私の人生におけるそのときそのときの選びは、私の判断によるものであると思いがちですが、仏教によりますと、実は、私が気が付かない無数の因縁の集まり、業縁により厳しく縛られるものであると教えられます。如来の摂取不捨の働きは、業縁に苦しむ者にこそ働き、人生に輝きをもたらします。ここまで懸命に歩んできた私の人生なのだから、失敗も含めた歩みの全てが、私を作り上げた意義のあるものであると「見直すことができる」と金子師は指摘されているのでしょう。(文責住職)


 

令和2年1月21日掲示


 古来より、「失敗は成功のもと」といい、失敗することも成功へと導かれる大事な過程であると教えられます。榎本師は、更に、私が犯しやすい失敗の原因にも留意されているように思われます。物事が成功に導かれるためには、私の努力はもとより、多くの人の協力が必要であり、様々な条件が満たされることが重要であると思われます。しかし、私は、様々な場面で「私」を主張したがり、そのことが、人の協力関係を乱し、成功への条件を危うくしていることがあるのではないでしょうか。失敗することにより、「私」へのしぶとい執着に気づかせて頂き、他と共に在る私の本当の姿に気づかせて頂ける、このことを榎本師は、「世の中少し広くなる」と表されているのでしょう。(文責住職)


 

令和2年1月9日掲示


 賢くなりたい、賢い人と言われたい、このことに強く強くとらわれているのが、私の姿ではないでしょうか。このことは、日常生活だけでなく、仏様の悟りを目指す、仏教の世界でも顔を出すようであります。私の努力により、少しばかり賢くなったと思うことがあったとしても、自らを偽らずに見つめてみれば、わがままを離れることのできない凡夫そのものであることに気づかされます。親鸞聖人は、「いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし」を自らの仏道の基本に据えられました。我々の生き方においても、「賢くなったと思う」ことが失敗につながることも多く、安田師の「迷うていることを悟る」ことの重要さがわかります。(文責住職)


 

令和2年1月1日掲示


 人生における本当の幸せは、思いを実現することではなく、命の本当の尊さに気づかされることではないでしょうか。仏教によりますと、私の命は、無限の過去からの因縁、無限の周囲の事物からの御縁により在らしめられているものであると教えられます。それは、今ここに生きていることは、過去から現在に至る宇宙全体の力が、私に至り届いて働いて下さっているということであります。思いを実現することに一喜一憂する私でありますが、このことに心を向ければ、私の思いに左右されることのない、命の本当の尊さに気づかさせて頂くことができるのではないでしょうか。平澤師は、その幸せについて、「天地の恵(めぐみ)」、「限りなき恩(めぐみ)」と、感謝の表現をされているのでしょう。(文責住職)


 


令和元年12月30日掲示


 除夜の鐘は、通俗的には、煩悩を108つととらえ、ひとつひとつ鐘をつくことにより、その煩悩を打ち砕き、この身を浄化して新年を迎えるという意味があるようであります。しかし、私の真実の姿を省みれば、煩悩を離れること誠に難しく、打ち砕いても打ち砕いても煩悩にとらわれることに気づかされます。親鸞聖人が開かれた道は、煩悩を離れようとするのではなく、煩悩を離れがたいわが身であることを深く自覚し、むしろ煩悩を御縁として如来の本願に会わせて頂く道であります。九条師にとって除夜の鐘は、煩悩が打ち砕かれるのではなく、三百余日煩悩に明け暮れているわが身の真実が、如来の光により明らかにされる証(あかし)であり、それを「さばき」と表現されておられるのでしょう。(文責住職)


 

令和元年12月23日掲示


 仏教の教えから届けられる最も大切な心は、「ともに生きる」ということではないでしょうか。無量寿の命をともに生きている、そのことを最も素直に感じられるのが、身近な人との心の交流なのかもしれません。人生の様々な行き詰まりも、実は、私へのしぶとい執着によるものがほとんどであって、「ともに生きる」ということに立ち返ってみれば、私の都合ばかりを優先していたに愚かさに気づかされることが多いようであります。厳しい寒さの冬も、私だけが寒いのでなく、ともに生きている多くの人が寒いのですから、そのことを共感することにより、人とともに在る力強さが感じられるのかもしれません。そのことを俵師は、「暖かさ」ととらえられているのでしょう。(文責住職)


 

令和元年12月11日掲示


 椿の花の時期には少し早いですが、寺の中庭の椿が早く咲き、花を落としていることから、武内師のこの言葉を掲示させて頂きました。椿は、冬の寒さの中で、鮮やかな花を咲かせます。その花が散るときは、花びらを一枚一枚散らすのではなく、花ごと落ちます。そして冷たい冬の地面は、しばらくは、椿の花で彩られます。大地の恵みを頂いて花を咲かせた椿は、まるで大地に感謝をささげているかのようです。武内師は、椿の花の姿に、人の一生を重ねておられるのではないでしょうか。苦労の多い人生を、限りない恵みを頂いて歩ませて頂く。そして受けとめて頂けるその恵みの世界があるからこそ、人生を終えていける。そのとき、椿のように、感謝を表現できるでしょうか。(文責住職)


 

令和元年11月25日掲示


 私の命は、一切の御縁によってあらしめられる命であって、もとより、私の思いの通りになるものではないと仏教では説いています。このことが、この身、この心で受け止められることを、仏教の「覚り」というのであります。ところが、この道理の通り生きることは誠に困難なことに気づかされます。仏教の道理を聞かせて頂いても、命に執着し、貪りの心、怒りの心が消えることはありません。このような私たちのために、阿弥陀様の浄土が開かれたのであります。浄土は、命終えたとき、参らせて頂くだけでなく、むしろ命に執着する私の人生を照らし、命の本当の姿を知らせて下さるのであります。このことを、親鸞聖人は、「急ぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみたもうなり」と言われているのでしょう。(文責住職)


 

令和元年11月12日掲示


 我々は、ああなりたい、こうなりたいと願い、その願いを叶えることが「幸せ」であるととらえているのではないでしょうか。古田師が言われる「幸せだから感謝する」ときの「幸せ」とは、この願いが叶う「幸せ」であるのかもしれません。しかし我々の願いは叶えられないことも多く、この「幸せ」には不安が付きまといます。たとえ願いが叶わなくても、私の命の尊さはいささかも変わることがない、こう思うことができたとき、それが「本当の幸せ」であるのではないでしょうか。命の尊さとは、一切の恵みを頂いて私がここに生かされていることであります。古田師は、その恵みに感謝するときが命の尊さに気づかせて頂くときであり、それが「本当の幸せ」と言われているのでしょう。(文責住職)


 

令和元年10月24日掲示


 凍えるような冬の寒さも、汗にまみれる夏の暑さも、心細い夜の暗闇も、気がめいるばかりの長雨も、全てが意味を持った大自然の営みであり、これらの恵みを頂いて、植物は育ち、花を咲かせると言えるのでしょう。我々は、一時の過ごしやすさ、快適さにとらわれて、本当に必要なことを見落とすことがあるのかもしれません。星野師は、我々が人生を歩み、自己形成していくことも、これと同じことが言えると指摘されているのです。悲しいこと、苦しいことに遇うと、「なぜこんな目に」と愚痴が出る私ですが、それは「私が私になっていく」ために必要なことであるのでしょう。越後流罪という、非道な出来事も、「これなお師教の恩致なり。」と戴かれた親鸞聖人の御心が偲ばれます。(文責住職)


 

令和元年10月14日掲示


 私がお念仏を申されるのは、限りない御縁の力によるものであると言えます。私自身がお念仏を考え出したわけではなく、釈迦様から始まった仏教の教えが私の生きている時代まで届けられたからであり、お念仏により活き活きと人生を歩まれた数え切れない人々のことを聞かせて頂いたからであり、また、祖父母、父母はじめ、身近な人がお念仏を申される姿を目にしたからではないでしょうか。しかしそうであったとしても、最終的に、私の心が申そうと思わなかったらお念仏が申されることはありません。親鸞聖人は、まさに念仏申そうと思い立ったそのときが、私に届けられている念仏を申させて頂くための全ての御縁の整ったときであり、そのとき既に、如来の摂取不捨の利益を頂いているのだと教えられておられるのでしょう。(文責住職)


 

令和元年10月3日掲示


 我々は、ほとんど無意識に雑巾を使っていますが、このように榎本師に指摘されてみると、その働きの尊さに頭が下がります。榎本師は、この雑巾の姿に、摂取不捨の如来の働きを見出しておられるのです。雑巾の働きに気づかされた心で、我々の周囲を見渡してみると、実はこの私の命を支えるために、数限りないものが、その身を犠牲にして、働いて下さっていることに気づかされます。食べ物としている生き物をはじめ、衣類、住居も、それらを損なうことで我々は生きていくことができるといえます。如来の摂取不捨の利益は、実は周囲のあらゆる働きの中にすでに見出されることを、榎本師は指摘しておられるのでしょう。(文責住職)


令和元年9月23日掲示


 我々は、自分の目標を持ち、願いを持ち、日々一生懸命生きています。その思いが叶えば喜びがあり、嬉しいことですが、いかに努力しても叶わないことがたくさんあるのではないでしょうか。如来は、我々の命というものは我々の思いをはるかに超えた無限の命(無量寿、阿弥陀)に抱かれるものであり、我々の人生の本当の喜びは、思いを叶えることではなく、この無限の命に出逢わせて頂くことであると教えられます。お念仏は、この無限の命の名、阿弥陀如来を呼びながら、実は如来から呼ばれるものであります。桐渓氏は、思いに一喜一憂する私が、お念仏により人生の本当の尊さに心を向けさせて頂けることを、「如来と一緒におる」と言われているのでしょう。(文責住職)


 

令和元年9月10日掲示


 人間は、両手を使えるようになったことで、知能が飛躍的に進化し、道具を作り出し、文明を発達させることができたと言われています。しかし同時に、両手は、争いごとや自然をこわすことにも使われ、罪を生み出すもとになる可能性もあるのかもしれません。その両手を合わせ合掌することは、人間の知能が生み出す世界をひとまず差し置いて、私の命が真に抱かれる世界に心を向けようとする姿勢の表明であると言えるのです。坂村師は、両手を合わせるその心をもって、身の周りの人も物も、両手でにぎる、両手で支える、両手で受ける、そこに、人や物を大切に思う気持ち(愛)、人と人の心の通い合い(情)が生まれると言われているのでしょう。(文責住職)


 

元年8月25日掲示


 「暑い暑い」と愚痴ばかり出る本年の夏であります。しかし、申すまでもなく、太陽のお照らしは、我々の命を維持する大切な自然の恵みです。ところが、感謝よりも不満の言葉が先に口から出る我々の不十分さを、九條師は指摘しておられるのであります。このことからもう少し考えを広げますと、本当に大切なものは、実は、無意識のうちに無限に頂いていることに気づかされるのではないでしょうか。この私の命、肉体、両親の愛情・・・、本当は感謝してもしきれないほどの恵みを頂いているにもかかわらず、不足や愚痴が先に立つ申し訳ない私の姿があるのかもしれません。あらゆる恵みに支えられて、この私がここに生きていることに、喜びと感謝を感じるべきことを、九條師は伝えられているのでしょう。(文責住職)


令和元年8月16日掲示

 我々は御縁によってあらしめられている存在であるにもかかわらず、「私が」「私でこそ」「私でなくては」と、どこまでも私を主張しないと収まらないのが私の姿であると感じられます。このことにより、周囲のものを見るときも、「私にとって」「私のために」と、私を中心とした価値に置き換えて見ていることがあるのではないでしょうか。全てのものは、私の価値判断とは関係なく、それぞれが本来の尊い価値を持った存在であるはずです。念仏申させて頂くことは、この「私」へのしぶといとらわれの心が破られることであります。金子師は、信心を頂き念仏申させて頂くことにより、「私」を離れたものの真実の姿に気づかせて頂けることを、「恵まれた仏の眼」と表現されていると思われます。(文責住職)


 

令和元年8月8日掲示


 この掲示は、本年8月6日、広島での平和記念式典での子供代表二人の言葉です。我々は、自分の育った国、文化、歴史の違いがあり、それにより異なる意見を持たざるを得ない現実があるようです。しかし、核爆弾が誠に非人道的な兵器であることは、人間であれば誰もが感じることであり、それから大切なもの、大切な人を守りたいと思うことは、人類共通の願いではないでしょうか。子供の言葉に、我々の立場の違いを超えた尊い真の願いを教えられます。全ての人がこの願いを心の底に保つことで、核爆弾が決して人に対して使用されないことを願うばかりであります。「みんなの大切を守りたい」の願いは、国に地獄、餓鬼、畜生なかれと願われた仏の本願に通じるものでありましょう(文責住職)



令和元年7月31日掲示


 「諸行無常」は、一般には、人生のはかなさを表す言葉になっており、不慮の出来事をあきらめるための言葉になっているのかもしれません。あきらめも人生においては必要と言えますが、お釈迦様は、この言葉により、むしろ私の生き方そのものを問いかけておられると言えます。我々は、私の思いにとらわれて、物事が予想通りに進むと思い込み、そのとおりに進まなかったとき、「想定外」で仕方がないとなっていることがあるのかもしれません。お釈迦様は、世の中の一切のことは、私の思いを超えて、あらゆる因縁の関わりの中で起こっていると説かれます。これが仏教の「諸行無常」であり、私の思いではなく、私が頂いている御縁の力を中心にすることを、「注意深く」と小川師は表現されていると思われます。(文責住職)



令和元年7月23日掲示


 私たちは、日々一生懸命生きているのですが、どうしても私の思い通りにしたいという気持ちから離れられないことに気付かされます。お釈迦様は、あらゆるものは互いの関係性においてのみ存在できるという縁起の道理を覚られ、この私は一切の御縁の中で生かされている存在であり、思い通りに生きようとする生き方は本来成り立たないことを指摘されました。そして私たちの苦悩は、この成り立たないことを成り立たせようとすることから生じるのだと諭されました。藤本師が、「仏に背きつづけている私」と指摘されているのは、懸命に生きながらも実は思いを叶えることばかりにとらわれている痛ましい私の姿であります。このことに、念仏、つまり仏を念ずることによって気付かせて頂くのが、「仏に出逢う」ということではないでしょうか。(文責住職)

 


令和元年7月17日掲示


 他力という言葉は、仏教の言葉の中でも、最も誤解されている言葉のひとつです。私の努力を放棄して、他のものに頼ろうとする安易な態度を、他力という言葉によって表されたりすることがあるようです。お釈迦様は、私という存在は、私以外の一切のもの、一切の御縁によって在らしめられているという事実に目覚められ、この私を在らしめている一切の力を他力と位置付けられました。実は私の努力も、あらゆる周囲の条件つまり他力によって生み出されたものであると教えられるのです。仏様を拝み、念仏を唱え、信心を頂くことは、自我から離れがたい我々が、この真実に呼び覚まされることであると言えます。梅原師は、この呼び覚まされることそのものも、限りない御縁の力によってこの私に届けられ、頂いたものであると指摘されているのでしょう。(文責住職)


 


令和元年7月10日掲示


 自分の考えだけでは気づかれない大切なことを、仏様の教えによって気づかせて頂く、そのときにお慈悲を喜ぶ気持ちでお念仏が申される、そのことも大事なお念仏の味わいであると感じます。しかし、金子師は、お念仏とは、私たちの心の状態によって申されるものではなく、私の思いをはるかに超えた力により私の口からお念仏が出て下さる、そのことが既に限りないお慈悲をいただいている証拠である、と指摘されておられます。お念仏が申されるそのときそのときに、お慈悲を感じさせていただく、これが本当に生きる力となって下さっているお念仏ではないでしょうか。親鸞聖人が開かれた「ただ念仏」の世界の味わいを、金子師は説かれているのでしょう。(文責住職)

 


令和元年7月2日掲示


 「私が」「私でこそ」と、他人より自分の方が優越していないと気が済まないのが、私の姿であると反省させられます。曽我量深師は、「優越感の正体は劣等感である。」と喝破されました。私のだめなところは、私がよくわかっているので、余計に、他人よりも優れているように思いたい、思われたいのが、この私の姿であるのかもしれません。でも誰もがその姿勢を貫けば、やはり人間関係はぎくしゃくし、争いごとの種になるのではないでしょうか。仮に他人よりも少しくらい優れていると思えるところがあったとしても、如来から見れば、煩悩を離れられない凡夫そのものであります。このことの自覚が、念仏により頂く信心であり、榎本師は「下座」と表現されたと思われます。その心から広がる大きな世界を、「ひろびろ」と表現されたのでしょう。(文責住職)